書棚の奥から、茶色に変色した封筒が滑り落ちたのは、冬にあって最も光の乏しい午後のことだった。宗一郎は老眼鏡をずらし、指先でその紙の厚みを確かめた。四十年前、翻訳者として駆け出しの頃に自分が書いたものに相違ない。宛名は「恭子様」とだけある。切手は貼られているが、消印はない。
手が震えるのを抑えつつ、封を切った。便箋は三枚。最初の一文を目で追ったやいなや、胸の奥に鈍い痛みが走った。「あなたがこの手紙を読む頃には、私はもう京都を発っているでしょう」——若さゆえの気取った書き出しが、かえって当時の怯えを生々しく伝えてくる。
なぜ投函しなかったのか。その理由は記憶の底に沈んで、もはや引き上げようがない。ただ、あの冬、恭子の家の前まで行って、郵便受けの金属の冷たさに指が触れた瞬間、踵を返したことだけは覚えている。雪が降っていた。投げ入れてさえしまえばそれまでだったものを、彼はポケットに戻し、そのまま駅へ向かったのだ。
翻訳という仕事を四十年続けてきた。他人の言葉を、一字一句過たぬよう移し替えることにかけては、同業者の誰にも引けを取らない自負がある。しかし、自分自身の言葉となると、いつもこうだった。書いては破り、書いては封をしたまま机の抽斗にしまい込む。原文なくしては成立しない仕事を選んだのも、あるいは、自らの内側から何かを差し出すことへの怯えばこそだったのかもしれない。
便箋を折り畳みながら、窓の外に目をやる。鉛色の空から、四十年前と同じ雪が、同じ速度で落ちていた。恭子はもういない。三年前、共通の友人からの喪中はがきで知った。涙は出なかった。ただ、翻訳中だった仏文の一節——「時は失われた者たちに属する」——を、その日何度も読み返したことを覚えている。
老人は立ち上がり、仏壇の引き出しから万年筆を取り出した。インクはかろうじて残っている。便箋の余白に、震える字で一行だけ書き加えた。「読まれぬままであったこと、それもまた一つの返事だったのでしょう」。封筒を元通りに閉じ、書棚の、今度はいちばん目につく場所に立てかけた。次に誰かがこの部屋を片付けるとき、見つけてくれる者があれば、それでよかった。
雪はいよいよ深く、町の音を吸い込んでいく。宗一郎は湯を沸かし、一人分の茶を淹れた。湯呑みを両手で包みながら、ふと、自分がいま手にしているこの温もりこそ、恭子に差し出せなかったものの正体だったのではないか、と思った。翻訳者たる者、原文に忠実であれと自らに課してきた。けれども、忠実であろうとするあまり、最も大切な言葉ほど、ついに声にならぬままだったのだ。
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