昔、北の果てに小さな社があり、その奥には名もなき山の神が鎮座していたそうな。里の者は神を畏れつつも、もはや名を呼ぶことさえできず、ただ古き祠に塩と米を供えるばかりであった。ある年の秋、都を追われた若き写字生が流れ着き、この祠に身を寄せた。男は筆一本あっての者であり、紙もなくして生きられぬ身であった。
「お前、わが名を書き留めてくれぬか」と、その夜、風のごとく響く声が男の枕辺を訪れた。目を凝らせば、朽ちた梁の影に老翁とおぼしき姿がぼんやりと浮かんでいる。男は息を呑み、身を起こすや否や、墨を磨り始めた。神は語り出した。己が千年にわたり山を守り来たりし由、されど今や誰一人として名を呼ぶ者なく、名を失えば神もまた消ゆるものであること。名なくしては、神は風の中に散るほかないのだと。
男は震える手で筆を執りつつ、神の語る一字一句を拾った。神の名は長く、漢字にして四十と八。その一画を誤れば、神は半分失せるとも言わしめる重き名であった。男は三日三晩、眠りもせず、食らいもせず、書き続けた。筆を置くことすら許されぬかのような、ある種の祈りに近い営みであった。
四日目の朝、男は最後の一画を引いた。顔を上げれば、神はもはや影さえなく、ただ祠に秋風が吹き込むばかりであった。されど男の膝の上には、墨も紙も確かに在り、書かれし名は朝日に照らされて金色に光っていたのである。
男はこの巻物を懐に抱え、里へ下りた。里人は皆、その巻物を見るなり涙を流し、「そうか、神の御名はこれであったか」と口々に囁いた。忘れられし名を取り戻したとあって、山の神は再び祠に戻り、里は豊かさを取り戻した。されど男は、それを見届けるや、静かに筆を折った。「神の名を記すに値する手は、生涯に一度きりあればよい」と言い残し、再び都へと消えた。
以来、その山の奥には、名を呼べば応える神がいるという。ただし、その名を知る者は、もはや誰もいない。名とは、記されて初めて保たれ、呼ばれずして静かに消ゆるものなのであろう。
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