台所の片隅に置かれた、ただの陶器の壺。蓋を開ければ、湿った糠の匂いが立ちのぼる。糠床(ぬかどこ)とは、米糠と塩と水だけで仕立てた、生きた漬け床である。祖母の代から受け継がれたものだと聞かされて育ったが、その実、毎日かき混ぜつつ世話をしてきたのは母であり、いまではわたしである。生き物のごとく、息をしているのだ。
世間の効率にひきかえ、糠床の時間はあくまで遅い。朝、底からひと掬い、表面まで返してやる。きゅうりであれ、茄子であれ、大根であれ、漬かり方は素材まかせ、季節まかせである。気温が一度違えば、味はまるで別物になる。料理本に「半日」と書いてあろうものを、真夏の台所では三時間で十分すぎ、真冬の北側の部屋では丸一日かけてようやく角が取れる。時計を見るのではなく、指で押し、舌で確かめる。それ以外に術はない。
糠床の機嫌というものを、はじめは信じていなかった。乳酸菌と酵母の働きにすぎない、と理屈で済ませようとしていた。しかし、十年も付き合っていると、確かに「機嫌」としか言いようのない波がある。雨の続いた週、わたしが旅に出て留守にした数日、あるいは新しい塩に切り替えた翌日。糠床はこちらの怠慢を、酸味の角や、ほのかな鉄錆めいた匂いで知らせてくる。叱られているような気にすらなる。
漬物というと、地味で素朴なものと受け取られがちだが、実のところ、これほど精密な発酵食品もそうはあるまい。塩分濃度がわずかに狂えば腐敗に傾き、空気に触れすぎれば産膜酵母が白く張り、かき混ぜすぎても乳酸菌は弱る。日に一度、底と表を入れ替える、そのささやかな所作なくして、この均衡は保たれない。便利さに慣れきった現代人にあって、毎朝同じ時刻に同じ動作を繰り返すという行為そのものが、もはや贅沢の部類なのかもしれない。
旬という言葉も、この壺の前に立つと、ようやく腑に落ちる。スーパーでは年中並んでいる胡瓜であれ、糠床に入れてみれば、夏のものと冬のものはまるで違う顔をする。皮の張り、水の含み方、糠を吸う速さ。旬とは、暦の上の記号ではなく、素材そのものが持つ密度の問題なのだと、糠床はくり返し教えてくる。
祖母の糠床を直接見たことはない。戦後の混乱のなかで、一度途絶えたと聞いている。母が嫁いで数年してから、近所のおばさんから分けてもらった糠を種にして、また育てなおしたのだという。だから厳密にいえば、わたしの壺は祖母のそれの直系ではない。それでも、毎朝手を入れていると、母の手つきを思い出し、その向こうに、会ったこともない祖母の台所まで遠く透けて見える気がする。
味というものは、家の輪郭そのものでもある。引っ越し、結婚、別離、家族の縮小。そのどれをも糠床は黙ってくぐり抜けてきた。器が変わり、台所が変わり、住む人間が変わってもなお、菌のあるじだけは引き継がれる。受け継ぐべきものは食材ではなく、じつは菌のほうだったのかもしれない。
便利な袋詰めの浅漬けに比べれば、糠床の手間は割に合わない、と人は言う。たしかに、合理の物差しで測れば、その通りであろう。しかし、毎朝五分、壺の前に立ち、指の温度で発酵の具合を読み、その日の自分の手つきを見つめなおす——その時間を失うくらいなら、わたしはこの面倒を選ぶ。
糠床は、台所に置かれたもう一つの時計である。秒針も文字盤も持たないが、こちらの不在も、怠慢も、ささやかな丁寧さも、すべて静かに記録している。発酵という、人間の都合に合わせない、ゆるやかで頑固な時間の流れ。それに合わせて生きるということ自体が、もしかすると、いちばん上等な食の贅沢なのかもしれない。
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