「傘というものは、買った瞬間から失うための準備を始める道具である」と、誰かが言ったとか言わないとか。実際、新品の傘ほど儚いものはない。購入当日に限って雨が降らず、ようやく一週間後に大雨が来たときには、すでにどこかへ消えている。
不思議なことに、安いビニール傘にもかかわらず、人はそれを失ったとき妙に落胆する。五百円の品物ものの、失ったあとの喪失感は五千円の財布を落としたときに匹敵する。理屈では到底説明しきれない感情である。
それどころか、失くした場所すら覚えていないのが普通だ。電車だったか、喫茶店だったか、あるいは友人宅の玄関先だったか。値段のわりに思い出はやけに立派で、まるで長年連れ添った相棒を見送ったかのような気分になる。
人は傘を失うたびに、人生の縮図を見る気がする。持っているときは意識せず、失って初めてその価値に気づく。しかも、雨が止めば一刻も早く手放したくなるあの身勝手さ。傘は道具というより、我々の忘恩を映す鏡なのかもしれない。
ある調査によれば、日本では年間およそ一億三千万本の傘が消費され、そのうち相当数が放置されるという。統計上の数字ばかりか、駅の忘れ物センターに積まれた傘の山を一度でも見れば、それが決して誇張ではないと分かる。あれほど大量の「忘却」が一箇所に集まる光景は、他の商品にはまず見られない。
とはいえ、人は今日もまた新しい傘を買う。失うと分かっていながら、次こそはと念じて買う。ひょっとすると、傘を買うという行為そのものが、我々なりの小さな楽観主義の表明なのかもしれない。失いながらも、空を見上げ続ける。それが人間というものの、案外悪くない姿である。
Tokenizing… (first load downloads ~17MB dictionary)