東京・谷中の路地裏に、間口の狭い古本屋がある。店主の前田達也さん(五十二歳)は、十五年前まで丸の内の総合商社で課長を務めていた。海外出張を重ね、年収も悪くないものでありながら、常に胃の痛みを抱えていたという。
「数字に追われる毎日にあって、自分が本当に欲しいものが何なのか、だんだん分からなくなっていました」
と前田さんは静かに語る。転機は、母親の急逝であった。葬儀のあと、実家の書棚を片付けつつ、幼い頃に父が読み聞かせてくれた絵本を見つけ、思わず座り込んで涙を流した。
「あの瞬間、本に囲まれて生きたい、と素直に思ったんです」
翌月には辞表を提出し、退職金の大半を元手に、谷中の古い長屋を借りた。店舗改装、在庫確保、仕入先の開拓、税務の手続き——何もかもが初めてで、妻からは反対された。経営は厳しいながらも、前田さんは地域の読書会を毎月開き、常連客と顔見知りの関係を築いてきた。
「利益を出すことはもちろん大事ですが、それだけを追いかけていた前半生に戻るつもりはありません」
午後三時、店の古い柱時計が鳴る。前田さんはエプロン姿のまま、近所の小学生に児童文学をすすめている。少子化が進む町にあって、子どもの来店は何よりの励みになるものの、客足が途絶える日も決して珍しくない。
「正直、年金の心配はあります。でも、本を誰かの手に渡す瞬間の喜びは、商社時代の賞与にはなかったものです」
と前田さんは笑った。夕方、閉店の時間が近づく。棚を整えつつ、明日仕入れる予定の文学全集の目録を眺める前田さんの表情は、十五年前より明らかに穏やかであった。
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