晩秋の午後、光が台所の床を斜めに切り取っていた。部屋の片隅に積まれた段ボール箱を前に、私は古い書類をより分けつつ、長らく忘れていた匂いを嗅いでいた。紙の、少しばかり黴びた、それでいてどこか懐かしい匂いである。忙しない日常にあって、斯うした時間を自分に許すことは滅多にない。けれど今日ばかりは、何となく手を止めずにはいられなかった。
束の中から、見覚えのある封筒が滑り落ちた。母の字である。二十年も前、私が上京した年の春に届いた手紙だった。封を切って読み返すと、几帳面な筆跡で、当たり障りのない近況と、控えめな励ましの言葉が綴られていた。「無理をしないように」と、ただそれだけの一行が、今になって妙に胸に残る。
当時の私は、母の手紙など真面に読まなかった。素直に返事を書けばよかったものを、多忙を言い訳にして、葉書一枚出さずじまいだった。母の支えなくして、あの苦しい一年を越えられた筈もないのに、当時はそれに気づきもしなかった。今更になって悔やんでいる自分に、少し呆れる。
仕事のかたわら、時々は電話をかけている積もりでいた。けれど声を聞くのと、斯うして文字を辿るのとでは、まるで重みが違う。親の情があればこそ、此の様な何気ない一行が二十年後まで生き延びるのだと、今頃になって思い知らされる。
軽やかに過ぎていく日々にひきかえ、斯うした紙片は、時の流れの外でじっと待っている。封筒を閉じて、元の箱に戻す。捨てる気にはなれない。何時かまた読み返す日が来るとも限らないが、其の時の為に、そっとしまっておこうと思った。夕日が少しずつ傾いて、床の光の角度が、ほんの数度だけ変わっていた。
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