残業続きで疲れ果てていながらも、なんとか終バスに間に合った夜のことだった。駅前のロータリーに滑り込んできたバスは、思っていたより空いていて、乗客は私を含めて五人ほど。運転手が低い声で行き先を告げるのを聞きつつ、私はいちばん後ろの窓際に腰を下ろした。
窓の外では、閉まりかけのシャッターや、看板の明かりを一つずつ落としていく店主たちの姿が流れていく。昼間の街とはうって変わって、夜の通りには、どこか静かすぎるほどの落ち着きがあった。信号待ちのたびに、遠くでかすかに電車の音が響く。それを聞くだけで、一日の緊張がほどけていくようだった。
前のほうの席では、スーツ姿の男性が頭をかすかに揺らしながら眠っていた。おそらく私と同じく、終わりの見えない会議に付き合わされた帰りなのだろう。その隣には、大きな紙袋を抱えた女性がいて、袋からは花の包み紙のようなものがのぞいていた。こんな時間に花を買うなんて、何か事情があるに違いない。とはいえ、見知らぬ人の夜に勝手な物語をつけるのは失礼だと思い、私は視線を窓のほうへ戻した。
バスが橋を渡るときに、川面に映る街の灯りが揺れているのが見えた。こういう景色を見るたびに、自分はこの街で暮らしているのだと改めて思う。取り立てて好きな街というわけではないものの、毎日同じ道を通って、同じコンビニに寄って、同じ駅で降りていると、いつの間にか身体のほうが街を覚えてしまうらしい。
途中の停留所で、年配の男性が杖をつきながら乗り込んできた。運転手は急がせることなく、乗客が落ち着いて席に着いたのを確認してから、ゆっくりとバスを発進させた。そのさりげない優しさに、思わず胸のあたりが温かくなる。都会は冷たいとよく言われるけれど、こういう小さな親切は、探そうとしなくてもあちこちにあるものだと思う。
自分の降りる停留所が近づいてきたので、降車ボタンを押した。ピンという控えめな音が車内に響く。立ち上がろうとしたとき、花を抱えた女性がそっと窓の外を見ているのに気づいた。その横顔は少し寂しげで、けれどどこか決意に満ちているようにも見えた。私はそれ以上彼女を見つめることはしなかったが、今夜の花が誰かのもとに無事に届くことを、ほんの少しだけ願った。
バスを降りると、夜風が思ったよりも冷たかった。残業で冷えきった身体に、その冷たさはむしろ心地よかった。見上げると、建物の隙間から月が見えた。満月ではないが、欠けているというほどでもない。明日もまたきっと同じようなバスに乗るのだろう。それでもいいと、今夜はなぜか素直に思えた。
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