十一月二十八日、初雪。
朝、窓掛を開けると、窓の外は既に白く霞んでいた。予報で知ってはいたものの、実際に降り始めた瞬間を見逃した事が、何故か小さな痛みのように残る。父が入院してから、三度目の冬になる。
台所で珈琲を淹れつつ、去年の同日の事を思い出していた。彼の日も雪だった。父は未だ歩けて、居間の窓辺から「積もるかな」と呟いていた。彼の一言を、私は適当に聞き流してしまった。今思えば、共に雪を眺めるという、何でもない時間こそが贅沢だったのだ。贅沢なくして幸福は語れぬと、誰かが書いていた気がする。
病室に着いたのは十時過ぎ。父は眠っていた。起こすのも忍びなく、窓際の椅子に腰を下ろして、唯雪を見ていた。外では音も無く、世界が真綿に包まれていくようで、時間の流れすら止まったかと錯覚した。父の呼吸だけが、微かに規則正しく続いていた。
声を掛けたかったものを、喉の奥で留めた。起こしたところで、父には最早窓の外が見えるか否か分からない。視力はおろか、声さえ最近は届いているのか怪しい。それでも私は、父が眠る傍らで、雪の話を小さく続けた。今年の初雪は早い事、隣家の犬が又吠えている事、母が買った新しい湯呑みの事。返事は無い。返事どころか、瞼の動きすら無い。それでも、聞こえていると信じたかった。
昼過ぎ、看護師さんが来て、父が少し目を開けた。視線は定まらず、私の顔を認識したか否かも分からない。それでも、私は「雪だよ、お父さん」と言った。父は本の少し、唇を動かした気がした。気のせいかも知れない。けれど、気のせいでも良かった。
帰り道、雪は止んでいた。積もる程ではなかったらしい。歩きながら、言えずじまいだった事許りが頭に浮かんだ。有難う、とも、御免ね、とも、本当は最も早く言うべきだったのだ。言える内に言えば良かったものを、私は何時も後回しにしてきた。
夜、窓を開けると、空気が湿って冷たかった。雪の匂いがした。父が元気だった頃、初雪の日は決まって熱燗を飲んでいた。小さな猪口を二つ並べて、母と向かい合っていた。私は未だ学生で、彼の様な二人を少し疎ましく思っていた。彼の時の疎ましさが、今は如何しようもなく愛おしい。
明日も又、病室に行こう。行ったところで、何が出来るわけでもない。それでも、行く。行く事、其れ自体が、私に出来る唯一の事だから。
雪は最早降っていない。けれど、私の中には、未だ静かに降り続けている気がする。
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