駅のホームに立っていると、人々の姿勢がこの十年で静かに変わったことに気づく。かつては何をするでもなく遠くを眺め、隣の人と目が合えば軽く会釈するという光景が当たり前であった。しかし今では、電車が来るまでの三分にもかかわらず、ほぼ全員が画面に視線を落としている。待つという行為そのものが、日常から消えつつあると言ってよい。
先日、歯医者の待合室で本を忘れたことに気づいた。診察までの二十分、何もすることがない。最初の五分は落ち着かず、何度もポケットを探った。ところが十分を過ぎたあたりから、奇妙な静けさが訪れた。窓の外の街路樹が風に揺れる様子、受付の女性が電話に応じる小さな声、隣の老人の規則正しい呼吸。普段ならば雑音として流してしまうものが、一つ一つ輪郭を持って浮かび上がってきたのである。退屈というより、むしろ豊かな時間であった。
こうした経験を通じて、私は画面を見ていない時間の価値を少し考え直すようになった。情報を詰め込むことに慣れた脳は、空白を恐れるように設計されているのかもしれない。けれども、本当に何かを考えるためには、その空白こそが必要なのだと思う。新しいアイデアは、忙しい瞬間ではなく、電車を待つ三分や、湯が沸くのを見ている二分のあいだに、ふっと浮かぶものだからである。
もちろん、便利さを否定するつもりはない。移動中に仕事の返信を片づけられるのはありがたいし、地図や翻訳がすぐに手元にある安心感も大きい。ただ、効率を追い求めるあまり、私たちは「何もしない時間」という貴重な資源を手放してしまったのではないか。その代償は、目に見えないだけに、気づくのが遅れる。
最近は意識して、電車を待つ間だけでも携帯をかばんにしまうようにしている。最初の一週間は退屈で仕方がなかったが、今ではその三分が、一日のなかでもっとも静かな時間になりつつある。何も考えないためではなく、ようやく考えはじめるための三分である。待つことは不便の名残ではなく、都会にあって残された数少ない贅沢なのかもしれない。
Tokenizing… (first load downloads ~17MB dictionary)