退職の日、桜井先生は普段より三十分早く教室に着いた。窓を開けると、三月末の冷たい風が入り込み、黒板の粉が舞った。四十二年間、この同じ二階の教室で数学を教えてきたのだ。
机の上には、昨日生徒たちが置いていった小さな花束があった。茶色く変わりかけのチューリップを見つめながらも、先生はふと、初めて教壇に立った日のことを思い出していた。あの日も三月で、手が震えて、チョークが何度も折れた。
「おはようございます」
振り返ると、教え子の山口が立っていた。もう三十を過ぎているはずだが、制服姿のままに見えるのは不思議なものだ。
「わざわざ来てくれたのか」
「最後の授業、聞きたくて」
「授業はもう終わったよ。今日は片付けだけだ」
山口は机の隅に腰かけた。先生は黒板を拭こうとしたものの、手が止まった。四十二年分の公式が、この黒板を通り過ぎていった。生徒の顔は覚えきれないどころか、最近は昨日の授業すら曖昧になる。
「先生、覚えていますか。高校二年の秋、僕が数学で零点を取った時」
「ああ、取ったな」
「放課後、先生がずっと教えてくれた。あれがなかったら、今の僕はいません」
先生は笑った。笑いながらも、目の奥が熱くなるのを感じた。教えてきた生徒は何千人といるが、こうして戻ってくる者は一人や二人だ。それでも、この仕事を続けてきた意味は、そこにあったのかもしれない。
「山口、一つ頼みがある」
「何でしょう」
「この花束、持って帰ってくれないか。枯れる前に、誰かの手元にあった方がいい」
山口は花を受け取り、深く頭を下げた。ドアが閉まった後、先生は一人、空の教室を見渡した。黒板消しを手に取り、最後の数式をゆっくりと消していった。
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