高校二年生の慎吾は、机に向かって数学の問題を解いていた。冬の夜は静かで、暖房の音だけが部屋に響いていた。シャープペンを動かす手を止めて、ふと壁に耳を寄せた。隣の部屋から、両親の笑い声が聞こえてきたからだ。母の高い笑い声と、父の低い笑い声が、まるで楽器のように重なっていた。慎吾はそんな音をずいぶん長い間聞いていなかった気がした。父が転職してから、家の中はいつも静かだった。食事のあいだも、誰もあまり話さなかった。母は台所で皿を洗いながら、ためいきをつくことが多かった。だから、笑い声が聞こえてくるのは本当に久しぶりだった。慎吾は問題を解くのをやめて、そのまま壁に背中をつけた。何を話しているのかは分からない。ただ、声の調子だけが伝わってくる。父が何かを言って、母がそれにこたえて笑う。それが何度も続いた。慎吾は小さい頃のことを思い出した。家族で旅行に行った時、車の中で父が冗談を言って、母がずっと笑っていた。あの時の笑い声と同じだった。「ああ、まだあの二人は、ちゃんと夫婦なんだ」と慎吾は思った。涙が出そうになって、自分でも驚いた。泣くようなことではないはずなのに、なぜか胸の奥が熱くなった。次の朝、慎吾はいつもより早く起きて、台所に行った。母がコーヒーを入れていた。「おはよう」「おはよう、早いね」と母が言った。慎吾は少し迷ってから、「昨日の夜、父さんと何を話してたの」と聞いてみた。母は驚いた顔をして、それから少し恥ずかしそうに笑った。「昔の写真を見てたの。あなたが赤ちゃんの頃の。お父さん、あなたの初めての一歩を撮りそこねて、すごく後悔してたって、覚えてる」慎吾は首を横に振った。「そんな話、初めて聞いた」「そう」と母は言って、コーヒーを一口飲んだ。窓の外では、雪が降りはじめていた。
Tokenizing… (first load downloads ~17MB dictionary)