「ご利用ありがとうございます」と、機械は淡々と告げる。こちらとて悪気はない。ただ林檎を二つ、袋に入れたいだけなのだ。ところが、機械の液晶にはすぐさま「予期せぬ商品がエリアに置かれました」と赤字が浮かび、店員を呼ぶ羽目になる。現代の成人にもまして無力な存在があろうか。列に並ぶ後ろの人々の視線を浴びながら、我々はただ機械の沙汰を待つばかりだ。
そもそも、自動精算機という発明は「人件費削減」と「顧客の利便性」を同時に謳った、あの誇らしげな広告から始まった。便利になったどころか、袋を開く仕草ひとつにも監視の目が光り、こちらの挙動すべてが疑念の対象となる。素直に会計させてくれるものを、と思わず天を仰ぐ。ただでさえ牛乳と卵を買って帰るだけの平凡な夕暮れに、なぜ我々は犯罪者のような扱いを受けねばならないのか。
興味深いのは、この屈辱を味わうのが庶民に限らないということだ。重役であろうと、大学教授であろうと、機械の前では等しく狼狽する。社会的地位にしてからが、バーコードの読み取りエラー一つで瞬時に無効化されるのである。先日も、スーツ姿の紳士が「バナナ」のボタンを探して十分以上さまよっていた。とはいえ、その姿を笑う資格など誰にもない。明日は我が身である。
そして、ついに店員が駆けつける。彼女は慣れた手つきで鍵を回し、何事もなかったかのように画面をリセットする。その所作の優雅さと迅速さを見るにつけ、こう思うのだ。最初から君に会計してもらえばよかったのに、と。結局のところ、「自動」を名乗る装置の多くは、背後に控える人間の忍耐あってこそ成り立っている。我々は効率化の名のもとに、黙って列に並び、機械に叱られ、人間に救われているのである。
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