深夜の美術館は、昼間とはまるで別の世界である。来館者の声も、解説音声も消え、ただ自分の足音だけが大理石の床に響く。今回お話を伺ったのは、架空の市立美術館で三十年近く夜警を務めている、七十歳の佐伯ミチ子さん(仮名)だ。常夜灯だけが灯る展示室を、懐中電灯片手に静かに歩くその姿には、不思議な落ち着きがあった。
——夜勤を長く続けてこられて、今でも怖いと感じることはありますか。
「怖いというより、なんというか、絵に見られている気がする夜がありますね。特に古い肖像画のある部屋はね、入った瞬間に空気が変わるんですよ。最初の頃は震えていましたけど、三十年もやっていると、だんだん慣れてくるものです。むしろ昼間の混雑のほうが、私にとっては疲れる。静けさに慣れてしまうと、騒がしい場所にいるだけで気分が悪くなりかねないんです」
——深夜に見回りをしながら、一番印象に残っている出来事は何でしょうか。
「ある冬の晩、雪が降った日のことでした。誰もいないはずの二階の廊下で、小さな足音が聞こえたんです。最初は気のせいだと思いましたが、音は止まらない。警備室に連絡しようとした、そのときです。窓の外を見たら、月の光に照らされた雪の上に、猫の足跡が一列に続いていた。屋根裏に迷い込んだ子猫だったんですよ。見つけた瞬間、怖さも吹き飛びました。それ以来、夜の美術館は人間のための場所であるとともに、小さな命のための場所でもあるんだと思うようになりました」
——この仕事を続けてこられた理由は何だと思いますか。
「向いているから、という以上に、美術館という場所そのものに育てられたんです。若い頃は絵のことなんて何も知らなかった。でも毎晩同じ絵を見ているうちに、少しずつ、絵のほうから話しかけてくるようになるんですよ。嬉しそうな日もあれば、寂しそうな日もある。もちろん気のせいかもしれません。でも、そう感じられるからこそ、三十年続いたんだと思います。退職した後も、きっと夢の中であの廊下を歩き続けるでしょうね」
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