谷中の細い路地を歩いていくと、木の看板に「紙ひこうき書店」と書かれた小さな古本屋がある。店主の森川悠子さんは四十二歳。以前は大手の出版社で働いていたが、五年前に会社をやめて、祖母から譲り受けた古い家でこの店を始めた。「本を売ることよりも、読む時間を売りたいと思って、お店を作りました」と悠子さんは静かに話す。
店の一番の特徴は、買わなくても一日中座って本が読めることだ。窓際には古い木の椅子が四つ並んでいて、そこには必ず誰かが座っている。お昼寝をしている大学生、編み物をしながら本を読む年配の女性、ノートに何か書き続けている男の人。悠子さんは「お客さんが来るたびに、その人の好きな本を一緒に探すようにしています」と話す。その日の気分によって、すすめる本を変えているそうだ。
本の値段はどれも安い。文庫本は百円、大きい本でも五百円を超えることはない。「利益が出ないのでは」と聞いたら、悠子さんは笑いながら「二階で週末だけ喫茶店もやっているので、なんとかなっています」と答えた。喫茶店では祖母のレシピで作ったあんみつとほうじ茶を出している。
夕方になると、近所の小学生が学校の帰りに店に寄る。悠子さんは子どもたちのために、絵本のコーナーをわざわざ広くしている。「小さいころに本を好きになると、大人になっても本を読み続ける人が多いんです」と悠子さんは言う。子どもたちが静かに絵本を読んでいる姿を見るのが、一日の中で一番好きな時間だそうだ。
店をやめたいと思ったことはないか、と聞いてみた。悠子さんはしばらく考えてから、「去年の冬、雪で屋根が壊れた時は本当に大変でした。修理のお金がなくて、一度は閉めることも考えました」と答えた。しかし、常連のお客さんたちが自分で募金を集めて、屋根を直してくれたという。「あの時、この店は私一人のものではないんだと気がつきました」。
店の奥には、悠子さんが毎日書いている小さな黒板がある。その日おすすめの一冊が、丁寧な字で書かれている。今日の本は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」だった。「季節によって、おすすめしたい本が自然に変わっていきます」。町の小さな本屋が、これからもこの場所で続いていくように、悠子さんは今日も静かに本を並べている。
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