朝活を辞めて、もう半年になるんですよ。
四時半起き、白湯、瞑想、英語のシャドーイング、ジョギング、冷水シャワー、プロテイン、それから読書二十分。これを三年以上、ほぼ毎日やってきたんです。SNSで「#朝活」を付けて投稿していた時期もあったし、生産性の本も棚一段分買い込んでいた。今思えば、自分の朝を最適化することそれ自体が、いつのまにか趣味になっていたんじゃないかと思うんです。
きっかけは些細な事でした。ある火曜日、いつも通り四時半に起きて、ルーティンを一つずつ消化しつつ、ふと気付いたんですよ。「今日、自分は何をしたいんだろう」って。手帳には十五分刻みの作業が並んでいるのに、そこに自分の意志で入れた項目が、一つも無い。健康の為、生産性の為、自己投資の為——どれも他人が書いた本の中にある言葉で、自分の声がどこにもなかったんです。
長年最適化に付き合ってきた身としては、これはちょっとした衝撃でした。最適化というのは、本来「自分が大切にしたい物」を守るための手段じゃないですか。それなのに、いつのまにか手段が目的を食い尽くしていた。生産性オタクにあって最も陥りがちな罠だと、今なら分かります。
翌週から、朝のルーティンを全部やめてみました。目覚ましも切った。起きたい時間に起きて、飲みたい物を飲んで、やりたい事をやる。最初の一週間は罪悪感で胸が苦しかった。「こんな事をしていたら自分は駄目になる」って、頭の中で誰かが叫び続けていた。でも二週目辺りから、奇妙な事が起き始めたんです。本当に書きたい文章が、するすると出て来るようになった。
最適化された日程というのは、効率という名の下に、思考の余白を削ぎ落とす物だったんだと、今なら分かります。とはいえ、ルーティンそのものを否定したい訳ではないんですよ。朝四時半に起きるのが心から楽しい人だっているし、それで人生が豊かになっているなら素晴らしい事だと思う。問題は「最適化された自分」という幻想を追い掛けて、現実の自分から遠ざかっていく方向。これだけは、もうやめようと決めたんです。
半年経った今、朝は七時半に起きて、珈琲を淹れて、窓の外をぼんやり眺める時間を一番大切にしています。何も生産していない。でも、これがあるから、午後に書く文章がちゃんと自分の声になる。生産性ゼロの三十分があってこその、残りの一日なんですよ。
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