実家の押入れから、小学生の頃に繰り返し読んだ児童文学が段ボールごと出てきたんですよ。数十年ぶりの再会だったにもかかわらず、表紙を見た瞬間に、当時の湿った畳の匂いまで蘇ってきて、自分でも驚きました。
最初はただの懐かしさだろうと思っていたんです。でも、夜中にページをめくりつつ、あのころ自分が引き込まれていた場面と、いま胸を衝かれる場面が、まるで違うことに気づいてしまった。主人公の勇気や冒険に震えていたはずなのに、今回いちばん刺さったのは、脇役の大人たちの沈黙や、物語の終盤で交わされる、何気ないひと言のほうだったんです。
子どもの頃の読書というものは、先が読めないがゆえの興奮で成り立っていたと思うんですよ。ページの向こうに何が待っているのか、わくわくして眠れない、あの感じ。ところが大人になってから同じ本を開くとなると、結末を覚えているものを、あえてもう一度なぞることになる。そうなってみて初めて、物語の本当の骨格みたいなものが、ようやく見えてくるんじゃないかと思うんです。
とはいえ、これは単なるノスタルジーではないはずなんですよ。効率重視の毎日にあって、すでに知っている話を何時間もかけて読み返すなんて、どう考えても贅沢でしかない。でも、その贅沢をしてみて痛感したのは、かつての自分が何に泣き、何に憧れていたかを、私はほとんど忘れかけていたという事実でした。
忘れていたものを、わざわざ思い出さなくてもいい、という意見もあるでしょう。過去に縛られず前を向け、という声も、もちろん分かる。しかし、自分の輪郭みたいなものは、驚くほど昔の愛読書の中に沈んでいるものでして、それを無視したまま走り続けるのは、長い目で見るとむしろ消耗が激しいのではないか、と最近は思うようになりました。
同じ本を違う年齢で読めるというのは、ちょっとした特権だと感じています。本は変わらないのに、こちらが変わっているから、同じページがまるで別の本として立ち上がってくる。その差分こそが、自分がどれだけ歩いてきたかの、いちばん正直な目盛りになるような気がするんです。
次に読み返すのは、たぶん五十を過ぎた頃なんでしょうね。そのとき自分が、どの台詞に線を引き、どの章で手を止めるのか。今からひそかに、楽しみにしています。
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