三十年振りに、雪深い東北の温泉郷を訪ねた。少年の頃、祖父に手を引かれて湯煙の立つ川辺を歩いた、あの集落である。記憶の中の木造旅館は、今や半ば廃墟と化していた。雪に埋もれた看板を眺めつつ、私は時の流れの容赦無さを噛みしめた。
宿の主人曰く、若者は疾うに都会へ流れ、残るのは老いた湯守許りだという。「湯はあっての温泉郷ですが、人なくしてこの土地は続きません」と、主人は静かに笑った。其の言葉には、諦念とも矜持とも付かぬ響きがあった。
夜更け、外湯へ向かう道すがら、雪は降り頻り、街灯の光を浴びて綿のごとく舞っていた。湯に浸かりつつ空を仰げば、星は凍てついた針の如く鋭い。賑わいを失った宿場にあって、此の静寂は寧ろ贅沢にすら思えてくる。嘗ての喧騒にひきかえ、今は雪の落ちる音さえ聞こえる。
翌朝、雪明かりの中を歩いた。店の殆どは閉ざされ、錆の浮いた鉄扉が連なる。早く手を打てばよかったものを、と誰かが呟いた声が、風に紛れて耳に残る。然れども湯は変わらず湧き、湯煙は天に昇る。人の営みが絶えても尚、土地の息吹だけは絶えない。
帰り際、主人は深々と頭を下げて言った。「又お出で下さい」と。其の声は震えていた。次に訪れる時、此の宿は最早無いかもしれぬ。それでも私は、湯煙のごとく儚い此の旅を、心に刻みつけて山を下りた。
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