二〇二四年の夏、日本中のスーパーマーケットの棚から、突然コメが消えた。「一人一袋まで」と書かれた紙が貼られ、五キロ袋を求めて店をはしごする買い物客の姿が各地で見られた。のちに「令和の米騒動」と呼ばれることになる現象の始まりである。
価格の上昇は、想像をはるかに超えるものだった。農林水産省の調査によれば、二〇二四年初頭には五キロ二千円前後だった精米の店頭価格は、二〇二五年一月には四千五十一円――前年同月比で実に七十七パーセントの上昇を記録した。二〇〇〇年以降の最高値である。その後も価格は下げ止まらず、銘柄米は一時、五キロ四千五百円を超えた。
なぜ、こんなことになったのか。背景にあるのは、ひとつの要因では説明できない複合的な構造である。まず、二〇二三年産米の不作。猛暑による高温障害で、一等米の比率が大きく落ち込んだ。次に、コロナ禍からの回復とともに急増したインバウンド観光客と外食需要。寿司や丼物を求める訪日客の増加は、業務用米の需給を一気に引き締めた。さらに、二〇二四年八月の南海トラフ地震臨時情報をきっかけとした消費者の備蓄買い。これが、もともと細っていた流通在庫に追い打ちをかけた。
しかし、専門家の多くがより根深い原因として指摘するのは、半世紀にわたって続いた減反政策の遺産である。一九七一年に始まり二〇一八年に名目上廃止されたこの政策は、生産調整を通じて米価を高く維持することを目的としてきた。結果として、コメの作付面積は減少を続け、有事に対応できる供給の余力を、日本は静かに失っていた。
政府の対応は遅かった。二〇二四年の夏から秋にかけて、農水省は一貫して「コメは足りている」と説明し続け、備蓄米の放出を拒んだ。風向きが変わったのは二〇二五年に入ってからである。一月三十一日、農水省は「大凶作以外でも、流通が滞っている場合には備蓄米を放出できる」と運用ルールを変更。三月、約二十一万トンの放出が始まった。それでも価格は思うように下がらず、五月には江藤拓農相が「コメは買ったことがない」と発言して辞任に追い込まれた。後任となった小泉進次郎農相は、随意契約による直接放出という異例の手法で、目標価格五キロ二千円の備蓄米を店頭に並べた。
影響は、家計だけにとどまらなかった。東京都内で町中華を営む六十代の店主は、「一杯六百円のチャーハンで利益を出すのは、もう限界だ」とこぼす。仕入れ価格は二年前の倍。値上げをすれば常連が離れ、据え置けば赤字が膨らむ。一方、生産者の側にも単純な恩恵はない。高値の利益は流通段階で吸収され、燃料費や肥料代の高騰に苦しむ農家の手取りは思ったほど増えていない、との声が各地から上がっている。
二〇二六年四月現在、状況はようやく落ち着きの兆しを見せ始めた。時事通信の集計では、四月上旬の全国スーパーの平均価格は五キロ三千九百三十三円。ピーク時から下がったとはいえ、騒動前の水準には遠い。政府備蓄は二〇二四年の約九十一万トンから、二〇二五年六月には十万トンまで激減し、その買い戻しという新たな課題も浮上している。
令和の米騒動は、単なる価格問題ではない。気候変動、観光、流通、そして長年の農政が一つに絡み合って噴き出した、構造の問題である。日本人にとって最も身近な主食をめぐる議論は、これからが本番なのかもしれない。
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