終電を一本逃したあとの新橋は、昼間とは別の街になる。サラリーマンの群れが消え、看板のネオンだけが律儀に光っている。私は理由もなく駅前のガード下を歩いていた。会社で何かを失ったわけでも、誰かと別れたわけでもない。ただ、家に帰るには早すぎる気がしたのだ。早すぎる、というのは時間の話ではなく、自分の中の何かが、まだ部屋の静けさに耐えられる形に整っていない、という意味だった。
ガード下の角に、煮干しラーメンの店が一軒ある。間口は二メートルもない。引き戸を開けると、湯気と魚の匂いが顔にぶつかってくる。カウンターだけの七席。先客は二人。一人はスーツのまま丼に顔を近づけている中年の男で、もう一人は文庫本を伏せて置いた若い女だった。誰も顔を上げない。それがありがたかった。
券売機の一番左、「煮干しそば」の七百五十円を押す。食券を出すと、白髪の店主は黙ってうなずいた。三十年この場所に立っているような所作だった。注文を通す声もない。湯切りの音と、寸胴から立ちのぼる蒸気の音だけが、店の中の時間を進めている。
出てきた一杯は、思ったより澄んでいた。スープの表面に細かい油が星座のように浮いている。蓮華で一口すくうと、苦みのある旨みが舌の奥に届いた。煮干しのスープは、優しくない。子供の頃に祖母の家で飲んだ味噌汁を、少しだけ思い出させる。あの台所にも、こんなふうに静かな夕方があった。
麺をすする音だけが、三人ぶん、ばらばらに重なる。隣の女が、文庫本のページをめくる気配があった。私はふと、この人たちもきっと、家に帰るには早すぎる夜を抱えてここに来たのだろう、と思った。それは寂しさという言葉ではうまく言えない感情だった。寂しいというより、むしろ、ちょうどいい距離だった。誰とも話さず、しかし一人きりでもない。湯気の向こうに他人がいる、その温度だけがあればよかった。
スープを半分ほど残して、私は箸を置いた。全部飲み干すには、少し塩辛すぎたし、少し正直すぎた。「ごちそうさま」と小さく言うと、店主は今度もうなずいただけだった。
外に出ると、空気が冷たく、煮干しの匂いがコートの袖にうっすら残っていた。タクシーを拾うほどでもない距離を、私はゆっくり歩き始めた。家の静けさは、もう、たぶん大丈夫だった。
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