東京には、地図には載っていない駅がある。
二〇〇四年の冬、ある掲示板に一つの書き込みがあった。「いつもの電車に乗ったはずなのに、知らない駅に着いた」。投稿者は『はすみ』と名乗り、駅名は『きさらぎ駅』だと言った。窓の外には田んぼと山。駅員もいない。携帯の電波だけが、かろうじて掲示板へつながっていた。
書き込みは数時間続いた。線路を歩き始めたこと。遠くで太鼓のような音が鳴っていること。片足のないおじいさんに「もう戻れないよ」と言われたこと。最後の投稿は短かった。「知らない男の人の車に乗せてもらった。山の中に向かっている」。それきり、はすみからの連絡は途絶えた。
この話を、ただのネット怪談だと笑う人は多い。けれど東京の終電後、似たような体験を語る者は、今も後を絶たない。
――深夜一時すぎ、私は山手線の某駅で電車を待っていた。残業帰りで、ホームには私一人だった。蛍光灯がジジ、と鳴る。線路の向こうから、生ぬるい風が吹いてきた。
そのとき、反対側のホームに女の人が立っているのに気づいた。喪服のような黒いワンピース。髪は濡れているように見えた。顔は、こちらを向いていなかった。
変だ、と思った。終電はもう過ぎている。反対方向の電車は、今夜はもう来ない。
目をそらして、また見た。女はさっきより、こちら側に近い気がした。ホームの端、線路ぎりぎりに立っている。
電車が来た。私は乗り込んだ。ドアが閉まる直前、もう一度反対のホームを見た。
誰もいなかった。
代わりに、私の乗った車両のドアの窓ガラスに、濡れた髪の女の顔が、内側から映っていた。
――タクシー運転手の間にも、似た話がある。深夜、青山墓地のあたりで若い女性客を乗せる。行き先を告げて、しばらく走る。バックミラーをふと見ると、後部座席は空になっている。シートだけが、ぐっしょりと濡れている。
ベテランの運転手は言う。「あの辺りで雨も降ってないのに濡れた客を乗せたら、料金は請求しない。黙って線香を上げる」。
東京は、世界で最も人口の密集した都市の一つだ。けれど終電が終わり、人の気配が引いたあと、この街には別の住人が現れる。
もしあなたが深夜のホームで、見覚えのない駅名標を見つけたら。もし乗ったタクシーの後ろから、聞こえるはずのない呼吸音がしたら。
どうか、振り向かないでほしい。
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