去年の春ごろから、小さな手帳を持ち歩くようになった。きっかけはとても単純で、電車の中でふと思いついたことを、家に着く前にすっかり忘れてしまったからだ。あのとき頭に浮かんだ言葉は、たぶん大したものではなかったと思う。
でも、思い出せないとわかった瞬間、小さな後悔のようなものが胸に残った。それ以来、鞄の中にはいつも一冊の手帳が入っている。最初のうちは、きちんと書こうと構えていた。
きれいな字で、順番どおりに、意味のあることだけを残そうとしていた。けれども、そんなふうに気を張っていると、かえって何も書けなくなることがわかってきた。書くたびに緊張してしまって、せっかくのアイデアが逃げていくのだ。
そこで、ルールをひとつだけ決めることにした。思いついたら、その場で一言だけ書く。それ以上は求めない。
たとえ字が汚くても、意味が通らなくても、あとで自分が笑ってしまうような短い言葉でもかまわない。そう決めてから、手帳に向かうのが少し楽になった。面白いもので、毎日少しずつ書いているうちに、自分がどんなことに反応しやすいのかが、だんだん見えてくるようになった。
私の場合、食べ物の匂いや、夕方の空の色、それから電車で耳にした知らない人の笑い声。そういう、他人からすれば何でもない瞬間に、私はよく手帳を開いているらしい。ページを読み返すたびに、こんな小さなことでも覚えておきたかったんだな、と少し恥ずかしくなる。
同時に、こういう瞬間を拾える自分のことが、前よりも少し好きになれた気がする。手帳を持ち歩くようになってから、時間の感じ方も変わってきた。何も書くことがない一日は、以前なら
「今日は何もなかった」
で終わっていたはずだ。しかし今は、書くことが見つからない日でも、見つけようとして周りをよく観察するようになる。結局、書かずに終わる日もある。
それでも、探した時間そのものが、その日を少し特別なものにしてくれる気がする。もちろん、誰にでも手帳が合うとは限らない。紙よりスマホのメモのほうが便利な人もいるだろうし、そもそも記録を残すことに興味がない人もいる。
ただ、何か一つ、自分のための小さな習慣を持つことは、思っていたよりずっと心を落ち着かせてくれる。書くという行為は、忘れないために始めたはずなのに、気づけば、今日という日をきちんと迎えるための儀式になっていた。
分詞中…(首次下載字典約 17MB)